千光院縁起

A Temple of Healing with Prayer and Natural Medicine with the idea of Yoga

 天正年間(1573〜1592)、阿波の国から出て近畿の覇権を握っていた三好家の一族に尾形長利という武将がいました。ときは信長や秀吉が活躍した桃山戦国時代。三好家は家臣の松永久長に追われ、尾形長利は討死します。嫡男・行部は闘いの空しさを知って修羅の場を離れ、名を法順と改めて京の「醍醐寺・三宝院」で修験の道に入ります。

 長く厳しい修行によって法を会得した法順は、やがて師に郷里に戻る許しを乞うたところ、『私の帰依仏である愛染明王からすでに夢のお告げを受けている。明王を奉じて寺を開くがよい』と許されたのです。そして法順が現在の徳島市寺町に「千光院愛染寺」を開いたのが当山の始まりです。

以上 【千光院縁起】による

あらたかな霊験により多くの人々の信仰を集めながら移転すること数度に及び、現在の境内は大正7年に祈祷と施療による病気治癒で全国に高名を馳せた神田貞信師が信者の寄進を受けたものです。

MEMO

【修験道】
「修」は苦修練行、「験」はそれによって得られる諸能力や利益の意味。役小角を開祖とし、山林を修業の場とする仏教の一派。護摩を焚き呪文を誦し祈祷を行う。密教に基づいて神仏いずれにも仕えるが、天台では円珍、真言では聖宝がこの道を中興し、前者により本山派修験(天台山伏;聖護院;熊野三山)が、後者により当山派修験(真言山伏;三宝院;大峯山系)が開かれた。
【修験者】
修験道の行者。有髪俗体の法身形、摘髪(つみがみ)の報身形、剃髪、墨染、僧体の応身形の三種がある。いずれも兜巾(ときん)を戴き、篠懸(すずかけ)および結袈裟(ゆいけさ)を着け笈(おい)を背負い、金剛杖をつき、法螺を鳴らし、山野に露宿して修業する。もとは太刀を帯びた。山伏。
※参照:マイクロソフト/小学館ブックシェルフベーシック
【醍醐寺】
聖宝理源大師が貞観16年(874)に上醍醐山上で地主横尾明神の示現により、醍醐水の霊泉を得、小堂宇を建立して、准胝、如意輪の両観音像を安置したのに始まる。そののち醍醐・朱雀・村上三帝のご信仰がよせられ、延喜7年(907)には醍醐天皇の御願による薬師堂が建立され、五大堂も落成するに至って上醍醐の伽藍が完成した。
その後、隆盛を極めた醍醐寺も長い年月の間に幾度かの火災と応仁・文明の大乱によって五重塔以外の下伽藍堂宇はことごとく灰燼に帰してしまった。のちに豊臣秀吉によって伽藍、三宝院殿舎・庭園が復興された。
※参照:総本山「醍醐寺」ホームページ

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神通山 千光院

真言宗醍醐派
神通山千光院。

「無憂扇温圧療法」のための枇杷木を大切に育てながら施療を行っています。